今はインターネットで調べると、その店のことが分かる時代です。
正確には分かったような気になる、ということかもしれませんねー。
実際に足を運ぶと、見ることができ(当たり前か)、そして自然といろいろな感情が訪れてくれます。
楽しかったー、美味しかったー、それよりももっと実際的な感情です。
それは瞬間的にその場で感じ取るのですが、ぼくの場合は帰ってきてこうしてしばらく経ってから、じわじわと湧いてくることが多いのです。
居心地が悪いこと、それって意外と大事なことかもしれない、です。
左京区とは、簡単に言えば、京都らしからぬ京都だとぼくは思いました。
京都といえば、神社仏閣、伝統的な老舗、和食、祇園など修学旅行的行き先に、事欠かない場所だという印象が切っても切れない場所だと思っていました。
それはそれで素晴らしいと思います。
でもね。
「そんなこと」よりもっと面白い所が、左京区だと、今となってはきっぱりと言いたいと思います。
(京都の人怒らないでね)
左京区とはどんな場所か。
京大や京都にあるいくつかの芸術大学や専門学校などの高等教育機関がいっぱいあります。
個人店がたくさんあります。ただし、例えば最近流行りのしゅっとしたインスタグラムに載せたくなるような店ではありません(ぼくは個人的に載せたいと思うけど)。もちろんかっこいい店もあるでもそれ以上にへんてこりんなお店がいっぱいです。
芸術能力に長けた人、一般人なのに有名人のようなカリスマ、が結構います。
ちゃんと消費すべき店を知っている賢明な消費者がたくさんいるような気がします。しかも狙ってそれをするのではなくそれを楽しんでいるように見えます。
お店の趣旨がはっきりしていて、かつオリジナリティを放ちまくっています。
言い換えれば本屋でも食堂でも同じテイストと括られるような造りになっていません。
そんな街がどうして生まれ、そして根付いたのだろう。
羨ましく思いました。
会う人も優しかった。よく笑うし、人生楽しもーや、そんな空気が滲み出ていた。
そしてちょっと長崎のことを恥ずかしく思いました。(ごめんなさい)
群れをなせば安心するし、顔見知りの人と会えば楽しいかもしれないです。
お洒落に整えておけば、周囲の人が羨んでくれます。すごいねって。
そして個人店は勘違いしていく。
本当に考えることを途中でやめて、大衆に迎合していく。
人と違うことは本当に怖いことかな。
左京区で出会った人は、「どう生活をするか」に重きを置いていない気がしました。
大事なのは「どう生きるか」だろ?そんな風に言われて気もしました。
折に触れ、旅に出ることは大事なことですね。
また時間を見つけて行きたい場所です。
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